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研究・分析 / RESEARCH / EM SIDE CHANNEL

ヘッドホンの音声を30m先から盗聴 — 香港科技大学らの「InjectEave」、電磁注入と非線形混合で低周波漏えいを可視化(USENIX Security 2026)

香港科技大学(広州)と香港理工大学の研究者らが2026年9月4日に公開した「InjectEave」は、外部から注入した電磁波をヘッドホンや固定電話の非線形回路で秘密の低周波信号と混合させ、MHz帯の放射として30m先まで盗聴可能にする手法だ。有線・無線ヘッドホンやスマート家電を含む11機種で実証し、コンクリート越しや固定電話の“盗聴→合成→注入”の閉ループ操作までを示した。

電磁サイドチャネルの常識は「受けるだけ」だった。香港科技大学(広州)と香港理工大学のHaoran Yan、Ziyu Shao、Shuhao Zhang、Qinhong Jiang、Yan Longの5氏は2026年9月4日、外部から電磁波を“注入”して意図的に漏えいを作り出すという逆転の発想に基づく研究「Injected and Leaked: Actively Inducing Side-Channel Leakage Using Electromagnetic Injection and Hardware Nonlinearity」(InjectEave)をarXivで公開した。論文は第35回USENIX Security Symposium(USENIX Security 2026、pp. 2485–2504)に採録されている。

従来、電磁注入(integrity侵害)と電磁漏えい(confidentiality侵害)は別々の脅威と扱われてきた。本研究は、ありふれた非線形ハードウェア(増幅器、ADC、電源コンバータ、スイッチングMOSFET)が、注入されたRFキャリアに秘密の低周波信号をAM変調のように乗せ、MHz/GHz帯で再放射することを理論と実測で示し、20Hz〜20kHzの音声や50Hzの電源変動といった“本来は飛ばない”信号を、攻撃者が能動的に増幅・成形して30m先から回収できることを実証した。

従来の限界と新枠組み — なぜ低周波は漏れなかったのか

通常の電磁サイドチャネルは、秘密信号$V_{sec}(t)$が意図せぬアンテナ(基板配線やケーブル)を介して効率$H_{tx}(f)$で漏れる一方向のチャネルとモデル化できる。問題は秘密の周波数とアンテナが効率よく放射できる周波数のミスマッチだ。人間の音声(20Hz〜20kHz)や家電の制御信号(200Hz以下)は、MHz帯で効率が上がる意図せぬアンテナの共振から遠く離れており、受信側が高感度化する以外にSNRを上げる手段がなかった。

研究チームが着目したのは、電磁注入の逆経路だ。2013年のFoo Kuneらによる注入研究が示したように、外部のAM変調波は配線を意図せぬ受信アンテナとして効率$H_{rx}(f)$で侵入し、増幅器などの非線形特性で復調される。本研究はその逆 — 非線形が復調だけでなく“変調”にも使えることを示した。すなわち、秘密信号と注入キャリアが非線形素子内で混合され、秘密のスペクトルがキャリア周波数$f_c$周辺の側波帯へアップコンバートされて再放射される。

Injection-Modulation-Emissionモデル

論文が提示するモデルは3段階で記述される。

  1. Injection Coupling: 攻撃者は$V_{inj}(t)=A_{inj}\cos(2\pi f_c t)$を送信し、配線で$V_c(t)=|H_{rx}(f_c)|A_{inj}\cos(2\pi f_c t+\varphi)$として非線形素子入力に現れる。
  2. Nonlinear Modulation: 非線形伝達を$V_{out}(t)=\sum \alpha_k V_{in}^k(t)$と多項式近似すると、2次の交差項$2\alpha_2 V_{sec}(t)V_c(t)$がAM変調成分として現れ、高次項$V_{hic}(t)$が高調波ひずみを生む。
  3. Carrier Emission: 変調波$V_{sec}^c(t)$が別の配線を送信アンテナとして$H_{tx}(f_c)$で放射され、攻撃者は$V_{eav}(t)=2\alpha_2 h_{tx}(V_{sec}(t)V_c(t))+h_{tx}(V_{hic}(t))$を観測する。

主要項の振幅は$|V_{eav}| \propto |H_{tx}(f_c)H_{rx}(f_c)|\cdot|\alpha_2|\cdot|V_{sec}|\cdot|V_{inj}|$で近似でき、$f_c$を複合効率が最大になる点に合わせ、$A_{inj}$を上げるほど能動的に漏えいを増幅できることが分かる。攻撃者は周波数と電力を“つまみ”として、漏えいのスペクトルとエントロピーを制御できる。

ありふれた非線形で起きることを確認 — 4素子での基礎検証

研究チームは市販の代表的な非線形素子4種を、2本の近接プローブ(注入用・受信用)で個別に検証した。広帯域0〜2GHzのスイープで、パッシブ観測ではいずれも秘密に相関する放射は見えず、非線形素子を線形抵抗に置換しても漏えいは消失した。

  • 増幅器(Analog Devices AD623): 200mVの0〜16kHzスイープを入力し80MHzキャリアを注入すると、側波帯に原信号と2倍・3倍の高調波が明瞭に現れた。
  • ADC(Texas Instruments ADS1115、16bit、860Hzサンプル): 同様に注入で秘密と高調波が回収できた。注入帯域がサンプルレートを大きく超えても漏えいが持続し、変調がADC前段のアナログフロントエンドで起きていることを示した。
  • スイッチングMOSFET(アクチュエータ駆動想定): Arduinoが生成する300/600/900/1200Hzの矩形波(可変速モータ制御の模擬)を秘密とし、高電流ループに注入すると、周波数ステップに対応した階段状スペクトルが再現された。
  • 電源コンバータ(AC-DC整流段): 50Hzの商用電源を秘密とすると、ブリッジ整流ダイオードの非線形で50Hzとその高調波(100Hz、150Hz…)が側波帯に現れた。

定量評価では$|V_{eav}|$が$|V_{sec}|$と$|V_{inj}|$にほぼ比例して伸びる“ニアリニアな増幅”が確認された一方、高次項による高調波がスペクトルを汚染し、広帯域音声では原信号の高域成分と重なる課題も明らかになった。

InjectEaveの実装 — 注入・受信・拡散モデルによる強調

課題のひずみに対処するため、研究チームは攻撃システムInjectEaveを設計した。

  • ハードウェア: 送信はEttus USRP B210とログペリオディックアンテナを最大出力で、受信はSiglent SSA3075X Plusスペクトラムアナライザとログペリオディックアンテナで同一$f_c$で復調し、ラップトップで記録する。可搬性を重視した構成だ。
  • 周波数プロファイリング: 70MHz〜2GHzを10MHz刻みで粗探索し、有望帯を1MHz刻みで精密探索して最適キャリアを選ぶ。音声機器は2kHz単音再生、ファンは最大風量、ランプは50Hz成分でプロファイルする。
  • 信号強調: Score-based Generative Model for Speech Enhancement(SGMSE)を用いた拡散モデルで、観測波形$|V_{eav}(t)|$を構造アンカーとしつつ、高調波ひずみ$V_{hic}(t)$をスコア関数で除去する。学習はLibriSpeechをクリーン音声とし、式(5)に基づく物理シミュレーションで非線形係数を変えながら歪み波形を合成したペアデータのみで行い、未見の実機で汎化を評価した。実機の2分間音声(50cm、65dB再生)ではSNR 7.0→16.1dB、STOI 0.58→0.72へ改善し、可聴性が有意に回復した。

11台の市販機器で評価 — ヘッドホンから家電まで

実験室では5カテゴリ11台のCOTS機器を、50cmでのSNRと認識率、最大到達距離で評価した(認識閾値は30回の試行で得た最低SNR、最大距離は検出閾値$10\log_{10}(10/B_n)$で判定。音声は$B_n=20$kHzで-33.0dB、ファン/ランプは$B_n=150$Hzで-11.8dB)。

区分 機種(代表) 漏えい源 50cm SNR 認識率 最大距離*
有線ヘッドホン Sony ZX110AP+Dell / +Mac、Apple Earbuds+iPhone 増幅器 21.7 / 13.9 / 5.9 dB 30/30、30/30、29/30 5m / 4m / 1m
無線ヘッドホン UGreen MAX2、PHILIPS TAH2020、HP H231R 増幅器 23.1 / 20.9 / 19.9 dB 30/30、30/30、29/30 6m / 6m / 4m
固定電話 Flyingvoice P23GW VoIP 増幅器+ADC 12.9 dB 30/30 3m
スマートファン OIDIRE ODI-MF10A、Xiaomi BPLDS10DM MOSFET 38.6 / 30.0 dB 30/30 6m / 4m
スマートランプ Xiaomi 1S、JINGZAO JDO-06 電源コンバータ 21.6 / 20.0 dB 30/30、29/30 3m / 3m

*デフォルト18dBm時の値。論文は倫理配慮から具体的な注入周波数は伏せている。

有線ヘッドホンでは同じSony ZX110APでもホスト(Dell G5とMacBook Pro M2)で最適周波数帯が大きくシフトし、サウンドカード内部の増幅器とグラウンド配線が漏えい源であることを示唆した。無線ヘッドホンではUGreen MAX2が最も強く、PHILIPSも6mで100%を維持した。VoIP固定電話も3mで100%と高い感受性を示した。スマートファンでは回転数(低27Hz/中40Hz/高50Hz)が側波帯オフセットとして現れ、睡眠/自然/標準モードの推定による在宅・就寝推定が可能だった。スマートランプでは50Hz電源電流の振幅が調光レベル(例: 読書20%)に対応し、明るさからの行動プロファイリングが示された。同一モデルのUGreen 3台でのプロファイル転用試験では、942MHzの最適周波数が3台で共通し、SNR偏差0.8〜2.9%で転用が成功した。

環境耐性を定量 — 距離・角度・壁

代表3機種(UGreen MAX2 940MHz、OIDIRE 480MHz、Xiaomi 1S 100MHz)で環境影響を測定した。

  • 距離: 10cm→5mでSNRは約45dB単調低下。ASRはXiaomiランプが2m超で低下、UGreenは5mで4.4%まで落ちる一方、OIDIREファンは5mでも100%を維持した。受信機をSiglent(位相雑音-98dBc/Hz@1GHz/10kHzオフセット)からKeysight N9000B(-110dBc/Hz)に替えると、UGreen 8m超、OIDIRE 10m、Xiaomi 5mまで延伸した。
  • 角度: 送受アンテナの相対角を0〜315°で回転させると、全機種で90°が最適(送信の直接漏れが受信を飽和させずノイズフロアが最小)。UGreenのASRは0°で50.5%→90°で93.7%まで変動したが、±15°ずれでも86%超を維持。ファンは全方位で100%と頑健だった。
  • 遮蔽: ガラス・木材はLoS比1〜2dB、コンクリートでもヘッドホン5.8dB、ファン/ランプ約2.5dBの低下に留まり、ASRはガラス・木材で不変、コンクリートでもヘッドホン-3%、ファン100%維持と、壁越し盗聴が十分に成立した。

野外ケーススタディ — 壁越し、閉ループ、そして30m

ケース1: 壁越しの音声盗聴

ホテル客室と会議室で、被害者BobがUGreen MAX2でビデオ通話中、攻撃者が隣室の30cmコンクリート壁越し1m超から商用TTSで合成した6つの会話セグメントを盗聴した。例「Let’s meet at the entrance of 221B Baker Street at 6 PM tomorrow.」では、原音のスペクトル高調波構造が壁越しでも保持され、拡散強調でさらに鮮明化した。再生音量を60→80dBで変化させるとSNRは正の相関を示し、私的会話の目安65dBでもSNR約10dB、WER約22%で可読だった。天井カメラ・マイクアレイ・空調が稼働する会議室でもON/OFF差は2.2dBに留まり、周波数選択性と空間選択性(アンテナ再配置)で多機器干渉を回避できることが示された。注入の可聴性も、18dBmでアンテナを密着させた最悪条件でもSTOI偏差0.001〜0.012(平均0.008)で知覚差なしだった。

ケース2: 固定電話の閉ループ改ざん

Flyingvoice P23GWを対象に、盗聴→合成→注入を統合した“Eavesdrop-Synthesize-Inject”を、アンテナアレイ・SDR・スペクトラムアナライザ・ラップトップ・可搬電源を収めたスーツケース型プロトタイプで実証した。廊下から20cmの壁越し50cmで、(1) 880MHzでAliceの音声を盗聴して文脈を把握、(2) キーワード「quote」「confirmation」をトリガーにIndexTTS-2でAliceのクローン音声をリアルタイム生成、(3) 1075MHzキャリアにAM変調して40dBmで注入しBobのヘッドセットに届ける — を時分割で実行した。外部マイクで録ったBob側の聴こえ方は、原音再生とのSTOI偏差平均0.071と高い類似度だった。

ケース3: 外部パワーアンプで30m

理論上の最大距離は$d_{max} \propto |V_{inj}|\cdot|V_{sec}|/N_{sys}$で、送信電力で延伸できる。Alibabaで415ドルのパワーアンプG41P40Sを追加し18dBm→40dBmに上げると、UGreen MAX2とPHILIPS TAH2020で30mの音声回収に成功した(デフォルト6mから延伸)。

限界 — マイク入力はなぜ届きにくいか

同じ手法をマイク入力(UGreen CM769、Razer SEIREN V3 MINI)に適用すると、最大利得でも30cmが限界だった。ヘッドホン出力が1〜2Vを要するのに対し、マイク出力は1〜10mVと40〜60dBの電圧差があり、式(5)どおり漏えいがノイズフロアに埋もれるためだ。ただし論文はこれを物理的限界ではなくハードウェア依存の境界と位置づけ、高利得アンテナや低雑音受信機などリソース次第で延伸可能としている。

緩和策 — ツイストペアは効くが万能ではない

論文は既存のデジタル向け対策(マスキング、ランダムクロック)がアナログ連続波形には適用できないことを指摘する。物理的硬化では、

  • 保護符号化: アナログ波形を劣化なくマスクすることは困難で、新たなアナログ保護の設計空間が必要。
  • EMC硬化: シールド、ローパスフィルタ、差動信号は一定の減衰にはなるが、高電力注入でバイパスされ、フィルタも寄生インダクタンスで高周波では劣化する。
  • 実測した緩和: 同じUSBスピーカで平行線37.6dB→ツイストペア26.9dBと10.7dB低減(CSTシミュレーションでは最大20dB)。ツイストペアは有力な出発点だが、基板配線や電源線、素子自体の非線形も寄与するため、包括的なハード・ソフト協調設計が必要だ。

能動的防御としては、**異常RFキャリアや非線形整流によるDCオフセットの監視[1][82]、センサフュージョンや符号化による一貫性検査[71][86]**などが有望だが、コスト・消費電力・フォームファクタのオーバーヘッドが課題とされる。

倫理配慮と開示

全実験は研究者が管理する機器で、会話はTTS合成音声を用い、壁越しシナリオも管理された環境で実施された。研究チームは関連メーカーに開示したが回答がないため、脆弱な注入周波数(表1の*部分)と攻撃制御ロジックは公開せず、信頼できる研究者からの要請にのみ提供し、ツイストペアのような防御的知見を優先して公開している。デモ音声や受信波形、強調コードはプロジェクトサイト(https://injecteave.github.io/)とZenodo(doi:10.5281/zenodo.20432240)で一部公開されている。


本稿は一次論文 arXiv:2609.04785 およびプロジェクトサイトの公開情報に基づく。二次情報は出典に含めていない。

出典

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